歴史の証言者として 〜闘うマルディエム〜
マルディエムさんは気高く強い女性だ。背筋をピンと伸ばし、インドネシアの『慰安婦』の声を人々に知ってもらうために、精力的に活動している。相手がインドネシア政府でも日本政府でも、彼女は丁寧な言葉で元『慰安婦』の現状を語り、正式な謝罪と個人への補償を訴える。ジャワの古き良き女性の慎ましさと、何者にも負けない力強さの2つをあわせもっている。
13歳で『慰安婦』に
ジョグジャカルタの王宮に仕える厳格な家で彼女は育った。13歳の時、歌手になれると騙されて慰安所に連れていかれ『慰安婦』になった。初めてのレイプの日、彼女はセックスの意味も知らない子供だった。その子供を最初に犯したのは慰安所の軍医の助手。そして、その日の内に6人の日本兵に11回レイプされた。下半身から出血が止まらず、慰安所の彼女の部屋の床は血で真っ赤に染まったという。
慰安所で誓ったこと
その日から3年半、昼となく夜となく、多くの兵士がコンドームと慰安所の切符を持って彼女の部屋を訪ね、ある者は彼女を殴りながら、ある者は卑猥な体位を強制しながら、ある者は避妊もせずに、彼女を犯し続けた。泣けば殴られる。逃げようとしたら日本兵に殺された。
妊娠したのは14歳の時。セックスすると子供が出来ることも知らなかった。麻酔のない手術室でお腹を押されて中絶した。一ヶ月も経たない内にまた、慰安所でのレイプは始まった。
『殴られる度、蹴られる度に思ったわ。私は将来、ここで自分が経験した全ての出来事を絶対に明らかにして、『歴史の証言者』になってやると。だから、死ぬわけにもいかないし、生きて家に帰ってこの悲惨な事実を伝えなきゃ、そう思うことで命をつないでいたの。』
1945年の8月に慰安所から解放された時、貯金してると聞かされていた慰安所の賃金は跡形もなくなった。遠く離れた実家に帰ることも出来ず、連合軍のレイプにおびえながら安全な場所を探して山の中を逃げまわった。16歳の時、夫と知り合って結婚。やっとの思いで実家に戻った時、彼女は23歳になっていた。
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歴史の証言者に
1993年、日本政府の『慰安婦』問題に関する謝罪のニュースを聞いたとき、体中に電気が走った。夫は既に他界していたし、迷うことなく彼女は自分の過去を公表した。今こそ『歴史の証言者』になる時だ。50年伏せてきた自分の中の怒りと悲しみと憎しみの全てを世の中に訴えたよう。その思いが彼女の体中を駆けめぐった。
そして、その日から、彼女はインドネシアの元『慰安婦』を代表す女性の一人になった。
孤立する元『慰安婦』たち
いま、マルディエムさんはインドネシアの元『慰安婦』を取り巻く厳しい環境と闘っている。LBH(法律援護協会)などの支援者に支えられながら、政府や関係者にデモを行い先頭に立って交渉を続けている。そうしたハードな戦いの日々の中で、彼女が一番力を入れているのは元『慰安婦』たちを定期的に回り、生活や精神面の相談に乗ることだ。過去を公表した仲間達の中には家族や周囲の人々からさげすまれ、後ろ指を指されている人が少なくない。ただでさえ、結婚もできず、孤独の中で人生を歩んできた元『慰安婦』たちが、死ぬ思いで告白した勇気が周囲の無理解のなかで、あだになっているのだ。
パルティエムさんという友人の家を回ったとき、世話をしている甥がマルディエムさんにこう言った。『俺はパルティエムのことをかわいそうだと思っているよ。だから、迷惑なのに俺の土地に住まわせてやって、食べ物も分けているんだ。だから、早く彼女に来るはずのお金を俺にまわしてくれ。本当はあんただけいい目にあっているんじゃないのか?』パルティエムさんは甥の前でただ小さくなって下を向いていた。
『甥はね、私のことやっかいだから嫌っているのよ。でも、私はお金がないから彼に面倒を見てもらうしかないの。』これが、マルディエムさんの友人達の現実なのだ。
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命の限りの中で
『仲間の所を訪ねる度に私は悲しくなります。孤独だったり、親戚の施しで生きていたり。そんな彼女たちを見る度に自分はもっと日本やインドネシアの政府に呼びかけて、きちんとした謝罪と個人補償を生きている内になんとしてもしてもらわなければと思うの。』
毎年、多くの友人が果たされぬ思いの中でその命を閉じている。昨年亡くなったスハルティさんは彼女の大親友だった。慰安所で、お姉さんのように面倒を見てくれた人だった。先ほどのパルティエムさんも今年病気でなくなった。何人の友が命を落としたのだろうか。闘いの時間はもう、限られているのだ。
次の世代に伝えたいこと
最近マルディエムさんが活動の中で必ず強調することがある。それは、次の世代に『慰安婦』問題をきちんと伝えて欲しいと言うことだ。
インドネシアの教科書には戦後のかなり早い時期から、戦争の被害者として、兵補やロームシャとよばれる男性の強制労働などの被害者のことは記述されている。しかし、『慰安婦』問題は最近になってようやく記述の検討が始まったばかりだ。そして、日本では『慰安婦』の記述は義務教育の教科書から消えようとしている。
2000年12月、東京で開かれた『国際女性戦犯法廷』という大規模な集会で証言したマルディエムさんは、記者会見でこう語った。『慰安婦問題は本当にあったことです。謝罪や補償と同じくらい大切なことは、日本の次の世代にこの事実をきちんと伝えることです。私は、13歳で慰安婦にならされました。家は王宮につかえていたので、お金に困って売春婦になる必要はありませんでした。慰安婦が売春婦だったと主張する人々がいるようですが、日本が私たちを強制的に『慰安婦』にした事実は紛れもなく本当のことです。過ちを繰り返さないためにも、この事実を若い人たちに知ってもらいたいのです。』
レイプと殴打の繰り返される慰安所の片隅で『歴史の証言者』となることを誓った少女は、60年近い歳月を経て、本当に『歴史の証言者』になって私たちに語りかけている。自分が経験した壮絶な痛みをただの不幸な人生で終わらせないために、彼女は次の世代に歴史の教訓として自分の生きた証を残したいと強く願っているのだ。
命の続く限り闘うと決めた彼女のまなざしに、私たちはどう答えることが出来るのだろうか。次の歴史を次ぐ者として。
■ 映 画 祭
・山形国際ドキュメンタリー映画祭2001にて特別上映
・ジャカルタ国際ドキュメンタリー映画祭2001にて上映
・アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭 Docs for Sale 参加作品 |