home news 上映予定 作品解説 メッセージ 遺棄毒ガス砲弾問題とは? 観客のVOICE 取材ノートから 自主上映会について
声なき人びとの叫びが大地にこだまする
         10 11 12 13 14

1.雪の大地

ざくっ、ざくっ、ざくっ。踏みしめる足下に雪深い大地が広がっている。三月も終わりだというのに、見渡す限りの雪景色だ。なだらかな丘陵地帯が果てしなく続き、遠くの山はかすんで見える。その上に、低くたれ込めた重い空。乾ききった冷たい空気が耳を刺す。私は両手をポケットから出すこともできない。

『もう、春ですよ。』 案内をしてくれた中国人の仲江サンがつぶやく。寒さと疲れでくたくたの私は、そんな気休めに返事もできないまま、果てしなく続く田舎の道を歩き続けた。背中のリュックが肩にずしっとのしかかる。カメラとバッテリーとテープ。もう3週間も、担ぎっぱなしの機材に私の体は悲鳴を上げている。『ここは、一体どこなんだろう?何でこんなに遠くまで来てしまったんだろう。』 心のどこかで来たことを後悔するような言葉を繰り返していた。

この三週間、毎日のように旧日本軍の遺棄兵器に苦しめられた人々を訪ねて歩いた。出会った人々はすでに、五十人を越えていた。その誰もが、平和な時代に突然、苦しみのどん底にたたき落とされていた。それは、この町の低くたれ込めた空のように、日本人としての自分にのしかかっていた。
2. 無表情の少年

遺棄兵器の被害者 楊淑利くん
ぎいいーー。やっと、たどり着いた1軒の民家の重い扉を開けた。小さな農機具が庭に散らばっている。作業の途中なのか、何かを積みかけのリヤカーが所在なさそうに置かれていた。そのそばで少年が農具の手入れをしている。切れ長の目はうつむいたまま、こちらを見ようともしない。

『ニーハオ、ニーハオ』

 家の中から出てきた父親が、案内の仲江さんと握手を交わすと、息子に向かって言った。

『おまえに会いにわざわざ日本から会いに来たお客さんだぞ。こっちへ入れ。』

ぶっきらぼうに呼びかけると、少年は無表情なまま手をとめてこちらを見た。ずるっ、ずるっ。一歩一歩、こちらに向かって少年は歩きだした。足を引きずっている。たった、数歩の距離がとても長く感じられる。冷たい風がびゅうっと吹き上げると、足下にいた鶏たちが大きな声をあげていなないた。よろけそうになった少年は、それでも無表情なまま、ずるっ、ずるっと音を立てながらこちらに向かってくる。

『ニーハオ』

笑いかけた私に、少年は無表情でうなずいた。

外の冷たさとは打って変わって、部屋の中は暖かい空気が充満している。玄関をはいると正面のかまどの前で奥さんと妹が立っていた。『寒いでしょう?こちらへ座って。』奥の部屋は韓国のオンドルのような高床の座敷。三人も人が座ればいっぱいになりそうな場所だ。がたがたと音を立てて揺れる窓には白い結露が波打っていた。

『事故に遭うまで、息子は走るのが大好きで、冗談ばっかり言う明るい子どもでした。それが、すっかり変わってしまいました。』 父親がそっと話し始めると、無表情の少年・楊淑利くんはオンドルに腰をおろして、じっと床を見つめている。今年十五歳になったばかりの楊くんが、おかしな鉄のかたまりを拾ったのは五年前の秋のことだった。
3. 鉄のかたまり 肉のかたまり

吹き飛んだ足
楊くんの足は吹き飛んだ
その日、楊くんは父親の畑のそばで、幼なじみの陳以林くんと一緒に遊んでいた。走るのが大好きな二人は畑を走り回って、草むらに隠れたり、虫や石をひろっては何かに見立てて遊んでいた。いつものように遊んでいた二人は畑のそばの土の中に変な形の鉄の固まりをみつけた。

『面白い形だね。』
『これ、廃品やさんに売ったらきっとお金になるよ。』 

思いがけず見つけた宝物に胸を弾ませて2人は嬉しそうに笑いあった。ゆっくりと鉄のかたまりを拾い上げた陳くんが、大事そうに抱えながら父親の畑に向かって走り出した。楊くんも負けじと陳くんの後をおう。『はあ、はあ、はあ。』
息が続く限り思い切り走った二人は、立ち止まった。次の瞬間、親友の陳くんが手にしていた鉄のかたまりはずるっと滑り落ちて、陳くんの足下におちた。

『バン!』 楊くんには、何が起きたのかわからなかったが、足に燃えるような傷みが走って、目の前が真っ暗になった。


陳くんの父親・陳春富はいつものように畑で作業していた。遠くで息子が友達と遊んでいる声が聞こえる。

『あいつらは、いつも一緒だな。』 十歳になった我が子は少しずつ子どもから少年へと変わり始めていた。

『男の子が産まれて本当に良かった。畑の仕事もだんだん手伝うようになってきたし。』

たくましくなりつつある我が子の成長に、男として誇らしい気持ちになっていた陳春富は、『バンッ!』と大きな音がして振り返った。音がしたのは息子達が遊んでいた方角だ。誰かが自分に向かって叫んだ。

『お宅の息子が!息子がーー!』 その声に驚いて、あわてて音の方向に駆け寄ると、地面に息子と友達の楊くんがたおれていた。楊くんの片足は吹き飛んでいて、跡形もなかった。そして、息子の体は下半身が吹き飛んでいた。見慣れた我が子とは似てもにつかぬその体を、陳春富はあわてて抱きしめた。『死ぬな!死ぬな!』 誰の目にももうだめだと言うことは明らかだったが、それでもとにかく医者へ連れていこうと、気が動転したまま我が子を抱き上げて立ち上がった。すると、『ずぶずぶずぶ。ぼたっ。ぼたっ。』 鈍い音がして、我が子の内臓が全て自分の足下に落ちた。生ぬるい感触と匂い。内臓で血まみれになった畑に陳春富は立ちつくしていた。半身になった我が子を抱えたまま・・・・。
4. 帰らぬ命 戻らぬ片足

死んだ子供の写真
楊くんと同じ事故で殺された陳くんの写真 母親は今も毎日写真をみて泣き続けている
事故から6年近くたった今も、陳春富はあのときのなま暖かい感覚を忘れない。これからもずっと忘れないだろう。慈しみ育ててきた我が子は一瞬にして、肉のかたまりになった。息子はもう帰らない。自分たちは年をとってゆくが、息子はあの日のままだ。残されたのは、2歳の頃に撮った無邪気な息子の写真だけ。事故の日以来、妻はずっと泣きつづけている。朝に夕に息子の写真を見て、部屋の片隅で肩をふるわせている。  

陳くんと一緒に事故にあった楊くんは、一命はとりとめたものの、片足が膝から吹き飛んでしまった。走るのが大好きだった楊くんはもう二度と走れなくなった。農家の跡取りが畑で働けない。歩くこともままならない体を引きずって、それでも畑へ手伝いに行くと、畑のそばには、自分の片足と親友の命を奪った事故現場がある。『あのとき、あんな鉄のかたまりを拾わなければ・・・。』 悔やんでも悔やんでも悔やみきれない。そして、自分の足は、もう、2度と戻ってこない。不格好に丸まった醜い膝頭の傷跡。さわる度にあの日の痛みがよみがえってくる。
5. イラクもアフガンも中国も

2004年の2月末から3月末までおよそ3週間かけて、私は黒竜江省の各地を回った。ハルピン市、チチハル市、フラルチ市、牡丹江市。遺棄毒ガス・砲弾の被害者を訪ねて撮影に明け暮れていた私は、のべ60人の被害者にあった。その旅の最後に訪ねた牡丹江で毒ガスの被害者・仲江さんの病院を訪ねたときに、彼から恐ろしい話を聞いた。

ロシアと北朝鮮にほど近いこの地域では、子どもが旧日本軍の砲弾を拾って死傷する事故が今も、毎年のようにおきているという。

敗戦時、国境近くのこの一帯には相当な数の日本兵が駐留していた。牡丹江で捕まってシベリアに収容された日本兵も多くいた。追いつめられた日本軍は山の中に兵器を埋めたまま、逃げていった。土に埋められた兵器の事は誰もしらないまま、60年の歳月がたっている。いまでは、兵器がどこにあるのかさえはっきりしない。大人なら砲弾の金属は何となく見分けがつくけれど、子どもには見分けがつかないために拾い上げて、毎年死傷しているというのだ。

この話を聞いたとき、どこかで聞いた話だと感じた。イラクやアフガニスタンで子どもがクラスター爆弾などを拾って爆死する話は、この2年間、大小に関わらず様々なメディアで耳にしてきた。悲惨だなと思ってはいたが、60年前の戦争で日本軍が棄てた兵器が、イラクやアフガンと全く同じような経緯で、いまも、中国の子どもたちを殺しているのだ。

訪ねた別の家では、いとこ同士の3人の子どもが被害にあっている。裏山で砲弾とは知らずに拾って、自宅の前で遊んでいて事故は起きた。3人の子どもは砲弾の爆発と共に跡形もなく吹き飛んだ。粉々になった子ども達の肉片が自宅の外壁にはべったりと、こびりついていたという。今も、その家に住む母親は、どんな思いで壁を掃除したのだろうか。いまは、肉片の跡形もなくなった外壁のきれいさが痛々しかった。


毒ガスの悲惨さも底なしだが、次から次へと語られる砲弾の被害者の話を聞いて、改めて、戦争の広がりの深さと、人間の愚かさに途方もない虚しさを感じた。
6. 見捨てられた被害者

体中に砲弾の破片のある張喜明
体中に砲弾の破片のある張喜明
黒竜江省のハルピン市から車で5時間。依蘭県と呼ばれる田舎の小さな町に、張喜明さんは住んでいた。大きな川のそば、家の前には土手が広がっている。ウナギの寝床のような細長い家の正面には、中国の昔の家らしく、『招福』の赤い文字が張り付けられている。

中に通されると、入り口の右に4畳ほどの小さな部屋。通りの水場を抜けた一番奥の部屋で、張喜明さんは横になっていた。一日のほとんどをこの場所で横になって過ごしている。牛乳瓶の底のような大きなめがねに、今では見かけなくなった人民服風の青い上着を着たまま、ぼさぼさの頭には櫛が入ることもないのだろう。オンドルの上で所在なさそうに横になっている張喜明は一見、60歳くらいに見えるが、実は1961年生まれ。まだ、40代の働き盛りだった。

『ここにも、、、ここにも、、、腕にも、、、頭にも、、、破片が入ってるんだよ。ここ、、、さわって、、、ごろごろするだろ。全部砲弾のかけらだよ。』 どもったような、もごもごしたじれったい口振りで、たどたどしく自分の被害を語り始めた。
7. 大黒柱から障害者へ

片目を失明したので歩くのがやっとだ
張喜明が事故にあったのは1980年。19歳の時だった。

事故に遭うまで張喜明は一家の大黒柱だった。兄弟は8人。母親を早くに亡くした一家は、長男と次男の張喜明が支えていた。健康でハンサムだった張喜明さんは近くのレンガ工場まで働きに行っていた。当時の月収は300元。重労働だったが、貧しい農村の一家では考えられないほどの高級とりだった。給料が出ると美味しい食べ物を買ってきては、幼い妹や弟たちに与える頼もしい兄だった。

事故が起きたのは、仕事が休みの朝だった。父親が家の前庭に納屋を造ろうと、工具を振り下ろして土を掘り返していた。親孝行だった張喜明は疲れた父親に代わって土を掘り返しはじめた。

 ざくっ、ざくっ。力強く振り下ろした工具の先に何か堅いモノが当たった次の瞬間、耳をつんざくような破裂音がして張喜明は倒れてしまった。

『兄は、血だらけでした。ちょっと離れたところで私はひとりで遊んでいたんですが、爆音と同時に、私の顔も血だらけになってしまって、私は子どもだったから何がなんだかわからなくて、ただ泣き叫んでいました。』

 騒ぎを聞きつけて近寄ってきた人々の中に、かつて日本軍の砲弾を見たことがあるおじさんがいて、爆発したのが日本軍の砲弾だったことがわかった。

父親は大八車に張喜明と妹の2人を乗せて、町で一番大きな病院にかつぎ込んだ。当時、依蘭県は今以上に田舎の町で、どの医者も体中に砲弾の破片が入った張喜明の症状を治すことはできなかった。父親は大金を借りて、一番近くの大きな町、ジャムスまで車で3時間かけて運んだ。

着ている服は全てが血まみれで、傷ついた肉に洋服が全部、張り付いてしまっていた。はさみで全て切って、手当を始めたが意識は回復せず、『彼は助かりません。死ぬ可能性が高いので、その覚悟をしてください。』 医者の言葉に、父親は泣き崩れた。
8. ただ生きているだけの人生

寝たきりの張喜明
寝たきりの張喜明
父親は借りられる全てのところからお金を借りた。息子を助けるためなら何でもしようと走り回った。その甲斐あって、奇跡的に喜明の命は救われたが、体中に何百と入ってしまった砲弾の破片はその大半が残ってしまった。片目に入った砲弾で完全に失明。頭にも、大きな破片が4つも入ったままだ。

おおらかで頼もしかった兄は、気性が荒くなり、小さな事でも発狂したかのように怒りだした。かとおもうと、突然泣き出した。何とか働きたいと外に出ると、てんかんのような発作に定期的に襲われるようになった。手足がけいれんし、口から泡を吹いて突然倒れる。一人ではどこに行くことも出来なくなった。精神の不安定さに、体の不調が重なって次第に寝たきりになった。

『毎日、ここで、外を見ています。ろくに見えないけど、僕には出来ることはなにもなくなってしまった。ひとりで、ずっと考えます。何で、こんな事になったのか?兄弟たちに迷惑をかけて、毎日、毎日、ただ、生きてるだけだ。もう、死にたいとずっと思っている。だれか、俺を殺してくれればいい。発作が起きたときに殺してくれればこんなつらい日々はもう終わりに出来るのに。』


張喜明の世話をしているのは一番下の弟・張喜有だ。今年29歳の弟は、姉たちが嫁に行って、父親が死んでからずっと一人で兄の世話をしてきた。朝、家を出る前にご飯を炊いて白菜を炒める。昼御飯の支度もして仕事に出かける。夕方家に帰って、また兄の食事の世話だ。毎日、弟は炊事場の片隅にかがんで炭をおこし、小さな鍋で白菜を炒めている。おかずとは呼べないような粗末なメニュー。肉も魚もほとんど食べられない。お金がないからだ。

『兄のことは好きですよ。子どもの頃からずっと一緒にいますから。でも、発作が起きたときは、本当に苦しそうで、見ているだけで辛いです。体が硬直しますから、そんなときは下の世話も全部俺がやります。仕方ないです・・・。』

弟には、何度か、結婚を考えた彼女がいた。それでも、自宅に連れてきて兄の様子を見ると、どの娘も結婚を断ってきた。いつまで、兄の世話を続ければいいのか、答えはない。
9. ぼろぼろの手帳を抱きしめて

張喜明の生活保護手帳
張喜明の生活保護手帳
張喜明が寝床の中でも、肌身離さず持っている手帳がある。生活保護手帳。障害者として認定されている彼は、毎月自治体から104元の生活保護をもらっている。小さな赤い手帳は表紙も本体もぼろぼろになってはがれてしまっている。

『何度も、見るんだ。次にいつお金がもらえるのか?どこにおいたか忘れてしまうから、いつも懐に入れている。他に収入はないし。少しでもお金が来れば弟の苦労の足しにしてもらえる。』

わずか104元では米を買ったら野菜は買えない。野菜を買ったら米は買えない。治療に当てる金など1円も出ないのだ。

張喜明が日本政府を相手に起こしている裁判は2003年の5月15日に地裁で敗訴している。現在、高裁に控訴中だが日本政府が彼のような被害者に誠意を持って答える確率はかなり低い。このままもし、裁判がうまくいかなければ、張喜明も弟もずっと希望のない人生をただ生きて行くしかない。もし勝ったらどうしますか?私は聞いてみた。

『借金を返して、養老院に入れてもらうんだ。そうすれば弟も結婚できるし、誰にも迷惑がかからないから。』

悲しそうに天井を見つめながら張喜明は答えた。

負ければ生き地獄が続く。勝って、精神的経済的に救われたとしても、張喜明の「生きているだけの人生」は取り返しがつかない。結局、生き地獄は続くのかもしれない。そんな気持ちになった。
10. 隠れた被害者たち

咳の発作が止まらない李国強
咳の発作が止まらない李国強
日本政府への遺棄毒ガス・砲弾訴訟に参加している原告は、張喜明を含めてわずか18人。冒頭で紹介した子ども達の事例や、他にも数限りない被害者がその被害の実態を知られることなく息をひそめている。


原告の一人、李国強をたずねてフラルチ市まで行った時、そのことを強く感じさせられた。李国強は1987年に遺棄毒ガスの事故にあった。ガス工場の工事現場から正体不明の液体が入ったドラム缶が見つかって、その分析をたのまれて事故にあった。全身にその後遺症が残っているが、一番顕著なのは、咳。『おえーー』というにごった叫びのような音をさせて、1日に10回以上、咳の発作に見舞われる。そのまま吐いてしまうときもあるし、血が混ざった胆がでるときも多く、体力の消耗は激しい。ひどいときは30分以上その症状が続くという。咳の発作は夜中もおこる。私は3晩一緒の部屋で眠ったが、毎晩、猛烈な咳の音で起こされた。一晩に3回も4回も起きて、咳をして、痰を吐く。朝まで眠れたことは事故にあって以来一度もない。

彼自身の被害のあまりのひどさにも驚かされたが、それ以上に、彼の周囲で同じ被害に襲われていた人がたくさんいたことにも本当に驚かされた。

毒ガス入りのドラム缶が発見されたときに立ち会った工事現場の労働者、警察関係者、また、液体の分析をたのまれた医療関係者や化学関係者などのべ100人以上が被毒しているようだ。
11. 生理だったために・・・

その中の一人、王建麗さんは事故当時、31歳。李国強と同じ病院で働いていた。ドラム缶が発見された現場に、李国強と一緒に派遣されて事故に遭っている。その日、彼女はたまたま生理だった。じめじめした小雨の降る中、屋外で、ドラム缶の中の液体を取り出すために、半日以上作業をしていた間に、彼女は何度もトイレに行った。生理用品を変える度に、毒ガスのついた手で自分の性器にさわっていたのだ。そうとは知らぬ間に。

夜遅くに自宅に戻ると、夫から『おまえ、何だその変な匂いは?』と問いつめられた。その日に発見されたドラム缶のことを話すと、夫は開口一番『それは日本軍の細菌兵器か毒ガス兵器ではないか?』と言った。夫は子どもの頃、似たような話を聞いたことがあったのだ。日本軍の毒ガスが見つかって、死んだ人いると。そんな夫の心配を笑い飛ばした王建麗だったが、翌朝になると目が桃のように膨れて、涙が止まらなくなった。職場に行くと、昨日現場にいた者はほとんどが同じ症状になっており、ドラム缶が原因だということがわかった。

『やはりあれは日本軍の毒ガスだったのかも。』

嫌なカンは的中し、しばらくすると軍の化学部隊が職場にやってきた。見たこともない重装備で、ガスマスクをかけた化学部隊の兵士は職場の隅々まで消毒して帰った。かれらの物々しい姿を見て初めて、これは大変なことになったと思った。

症状は顔だけでなく、全身に出た。特に、性器の周りは、水膨れが大きくなって、それが常に破れたような非道い状況だった。顔や他のところの症状がひいた後も、性器の周りは余り良くならなかった。生理だったばっかりに、猛毒のイペリットを直接塗ってしまった。

それから、夫とは性生活が出来なくなった。外陰部も膣も、セックスをしようとすると水疱の破れが非道い痛みになって神経を刺す。何度も求められ、自分でも何とかしたいと試みたが、激しい痛みに言葉も失って、夫婦の寝室は冷たい空気につつまれた。夫は自分のことを嫌いになったのか?と何度も問いつめる。そうではないけれど・・・。次第に夫婦の中は冷え、言い争いが絶えなくなった。気力も無くなって、性格も暗くなった。毎朝咳で起きる。李国強ほどではないが、王さんも咳の発作に苦しめられている。
12. 防げたはずのチチハル事件

毒ガス処理を伝える中国のニュース
2003年8月4日のチチハルでの遺棄毒ガスの事故が起こるまで、王建麗たちは自分の事を訴えられる場所がなかった。1987年当時、中国は改革解放の始まる前で、鎖国状態だったためにニュースは統制されていた。

『もし、自分たちの事故のことが報道されていたら、もっと早く、この毒ガスの問題が世の中に知られていたとおもう。絶対に、チチハルの事故は起きなかった。それが悔しくてたまらない。』

李国強や王建麗と同じ時に事故にあった初忠琴さんは、自分の被害について一通り話し終わった後、私に鋭い目を向けてこう言った。

『どこに、どのくらい毒ガスを捨てたのですか?わかっていることがあったら何でもいい。教えて欲しいんです。私たちはこの町でこれからもずっと生きて行かねばなりません。自分たちの子どもや孫が同じ被害に遭わないためにも、わかっている情報を全て教えてください。そうでないと、これからも事故は続きます。中国人をいつまで痛めつければ気が済むの?』
13. 声なき人々

526化学部隊の跡地には門柱だけが残されていた
沢山の被害者がいることを痛感して、フラルチ市かを後にした私を、李国強がある場所に案内してくれた。美しい林の真ん中にある崩れかかった大きな石。れんがのような素材で作られたその石は、かつてこの場所にあった526部隊の門柱だ。この地域には526部隊と516部隊という化学兵器専門の部隊があった。敗戦時に証拠を隠すために、施設は爆破されたが立派だった門の柱は土台の一部が残った。雪景色に逆光がきらきらと光って、石を照らしている。

李国強は石を指さしながら、『門柱だけでもこんなに立派でした。施設が頑丈だったことがわかるでしょう?この場所に来ると怒りがこみ上げて来ます。ここで作ったり、使った毒ガスが私を苦しめているのです。金子という日本兵が手紙をよこしたことがあります。日中戦争の最中に毒ガスをフラルチ市で捨てたと。どうか、許して欲しいと。それがフラルチ人民を苦しめているのではないかと?林にも、川にも捨てたという情報があります。このままでは果てしなく毒ガスの事故が続くでしょう。』

チチハルの事故ほど大規模ではないが、小さな遺棄毒ガスの事故はずっと起き続けている。ニュースにもならない。それほど沢山の人が傷つけられているということだ。そう言う人々の叫びは国家や時代の壁にかき消されて、私たちの耳まで届くことはない。

裁判を続けている18人の被害者には絶対に勝ってもらいたいと思う。でも、それで救われるのはわずか18人。その周りにいる何百、何千という被害者は、裁判に勝っても救われることはない。かつての戦争の遺物で、平和な時代に傷つけられる人々をどうしたら救えるのだろうか。
14. 欲望の果てに

3週間でのべ60人あまりの遺棄毒ガスや砲弾の被害者にあった。旅の最終日、牡丹江で最後の家を後にしたのは夜8時。最終便で北京に戻って、明日の朝には成田行きの飛行機で帰る。とっぷりと日は暮れて、昼間、果てしなく続くかと思われた雪の道は、漆黒の闇に消えてしまった。舗装されていないがたがたの道にゆられながら暗闇を見つめていた。ほっとしたと同時に、今、自分のいる場所が、果てしなく遠いところに思えてきた。そして、いますぐここから帰りたいとさえ思ってしまった。

こんな遠くまで、日本人はかつて何をしに来たのだろうか?見知らぬ土地で、人を殺し、物を奪い、壊し、女達を犯し、毒や兵器を捨てた。

あの山にも、この山にも、日本兵がいたかもしれない。見えない暗闇の中に、兵器を埋めて逃げる日本兵がよぎった。その姿に、出会った60人あまりの被害者一人一人の顔が重なって、浮かんでは消えていった。誰にも知られることなく、傷つけられ、殺される人々。被害者の声無き叫びが、大地にこだましている。

日本は、きっと、今も逃げ続けているのだ。あの日、兵器を埋めて逃げた日本兵とおなじように。

私は逃げたくない。逃げちゃいけない。そのことを漆黒の大地に向かって、叫びたい衝動にかられながら、車の中で一人でつぶやいていた。
kanatomokoHP
(c) 2002 KanaTomoko All rights reserved.
問い合わせ