home news 上映予定 作品解説 メッセージ 遺棄毒ガス砲弾問題とは? 観客のVOICE 取材ノートから 自主上映会について
声なき人びとの叫びが大地にこだまする
      

1. 最愛の父を失って

遺棄兵器で父親を失った リウミンさん
遺棄兵器で父親を失った リウミンさん
『父は本当に優しい人で、私と弟をかわいがってくれました。畑仕事の他に発電所でも働いていたので、お金に困ったことはありません。欲しいモノは何でも買ってくれたし、休みになると庭で一緒にご飯を食べるのが家族の楽しみでした。父が生きていた頃、私たち家族がどれほど幸せで、どれほど普通に楽しく生きていたか。もう、あの日々は二度と戻らないんです。』

父親の話を始めると、それまで気丈に振まっていた劉敏(リュウ・ミン)さん(二十七歳)は、涙が止まらなくなった。彼女の瞳は重く沈んでいて、表情はなんともいえずくらい。口元が笑った形をしていても、瞳の奥はまったく笑っていない。父親が死んだ後、一家を支えるために休みなく働いてきた八年間が彼女から笑顔を奪ってしまった。

劉敏さんの父・劉遠国(リユ・ユエングオ)さんが亡くなったのは一九九五年。村の道路工事を手伝っていたときだった。突然、大きな音がして、一緒に工事をしていた村の仲間は即死した。劉遠国さん自身も両腕が吹き飛び、右足は骨折、左足には爆弾の残骸が貫通して、全身の皮膚の三分の一が焼けただれた。爆発したのは日本軍が遺棄した砲弾。戦争が終わってから五十年以上眠り続けていた砲弾が、道路工事の衝撃で爆発したのだ。劉敏さんの父親はそのとき、四十歳だった。

朝、いつもと同じように学校へ出かけていた劉敏さんと弟は、『父親が大けがをしたから、すぐに学校から帰るように』との電話をうけて、急いで病院へ向かった。

『そこには変わり果てた父の姿がありました。あまりに、ショッキングなので見ないほうがいいと、病院の人が制止するほど変わり果てていたのです。それは、父だと言われてもとても信じられない状態でした。』

母親のチイ・淑芳(チイ・シュウ・ファン)と劉敏さんは、その日から寝ずに父親の看病をした。やけどの被害は甚大で、皮をすべて取り除き、ガーゼと薬を患部に貼り付けた。何度取り替えてもびらんを繰り返した。二時間に一回は体の向きを変え、寝返りをさせて何とか命だけでも助かってほしい。その想いだけで親子は最愛の人を看病し続けた。

劉敏さんの耳からは今も、病院で聞いた父親のうめき声が離れない。あれほど我慢強い、頼りがいのある父親があまりの痛みと苦しさから言葉にならない叫び声を上げていた。病室の外まで聞こえる大きな叫び声だった。そのそばで母親が泣きながら父を世話している。劉敏さんは、今すぐ、誰かに夢だといってほしかった。とても現実だとは信じられなかった。つい昨日まで自分にも家族にもあった明るい未来はもうどこにもなかった。
事故から十七日後、父親は帰らぬ人となった。

それから残された親子を待っていたのは地獄の苦しみだった。たった十七日間の入院中にかかった治療費は父親の年収の数倍の金額だった。

『ひどすぎる症状のために治療費は莫大な金額になりました。あちこちの親戚からなんとか借りて工面しましたが、あまりの大金にこれ以上どうにもならなかったんです。』

一家は借金を返すために、父親が立ててくれた家を売った、それでも、まったく足りないので劉敏さんと弟はすぐに学校を辞めて働き出した。劉敏さんは高校三年生。弟は中学二年生で、まだ、十四歳だった。
2. 未来のない人生

支え合って生きる リウミン親子
支え合って生きる リウミン親子
その日から、親戚が経営している小さな町の食堂が一家の全てになった。食堂の厨房は、五人も人が入れば満員だ。母親はそこで野菜を切ったり、餃子をつくる調理の下働き。劉敏さんと弟は接客と皿洗い。毎日十四時間、朝から晩まで一家は休みなく働いて借金を返しはじめた。一日中立ちっぱなし。ずっと専業主婦をしていた母親にはあまりにつらい毎日だった。住むところもないので、親戚の家の一間を借りて三人で暮らしはじめた。庭のある一軒家で何の不自由もなく暮らしていた生活は、もうどこにもなかった。

母親の月給は二百元(一元は十五円・およそ三千円)。いくらはたらいても七万元の借金は減らない。劉敏さんは少しでも、借金を返したいと数年前からハルピン市内で住み込みの仕事始めた。スーパーの店員やさまざまな仕事をしてきたが、今年から美容院で見習いをしている。仕事は一週間に七日。休みはない。この半年で四キロやせた。

『休みはないですから、実家に帰るのも年に数回だけです。楽しいことなんて何もありません。毎日働くだけです。楽しいことなんて、考える時間もないんです。』

母親は心労のために心臓病をわずらい、腰も悪くした。最近では心臓病の薬のために毎月百元がとんでゆく。手元に残るのはわずか百元のみ。借金の返済などにはあてられない。

『悲しくて、惨めで、情けなくて。泣いても泣いても涙が出ます。住むところもない。休むこともできない。大切な娘に会うこともできない。借金が返せるめどもたたない。こんな人生になるなんて思っても見なかった。なぜ、私たちがこんな目にあわなければならないの? 』

母親のチイ・淑芳(チイ・シュウ・ファン)は、突然、堰を切ったように激しく泣き出した。久しぶりに再会した娘の前で、いつも一人で、我慢している感情がふきだした。

『何度も死のうと思いました。でも、子供たちがいます。将来のことを考えるとこの地獄がずっと続くのかと苦しくなります。娘も息子も学校もろくに出してやれず、そろそろ結婚もさせてやりたいですが、貧乏な私たちにはそんなことを考える余裕はありません。子供にこんなに不憫な思いをさせて。父親が生きていたら、どんなに幸せな日々を送っていただろうかと考えない日はありません。』

『借金取りにおびえながら働く毎日がそれほど惨めか、日本政府も、日本人も人間ならわかるはずです。そして、私たちが失ったものはもう帰ってこないものなんです。どんなにお金を積まれても死んだ夫はかえってきません。どれだけ中国人に被害を与えれば日本人は気がすむのですか?日本政府は私たちの現状をしっているの?私の、私たちに幸せな日々を返してくださいーーー。』

抑えていた感情が次から次へとあふれ出て、母親は子供のように泣きじゃくった。久しぶりに母と再会した娘は泣きじゃくる母親をゆっくりと抱き寄せて、母親の胸をそっとなでた。感情が高ぶると心臓にとても悪いのだ。小さな子供をいつくしむかのように母親をいたわる劉敏。二十七歳の彼女は一家の大黒柱として、経済的にも精神的にも強くならなければ生きていけないのだ。

彼女にも夢があった。教師になること。弟は獣医になりたかった。でも、今のままの二人には借金に負われて、ただ働くだけの人生しかまっていない。すべての夢も未来もたった一発の砲弾ですべて吹っ飛んでしまったのだ。

3. 黒龍江省・よみがえる悪魔

731部隊の生体実験で殺された中国人たち
731部隊の生体実験で殺された中国人たち
劉敏さんが住んでいるのは、中国の東北部・黒竜江省ハルピン市。日本人には伊藤博文の暗殺の地として知られているが、二十世紀の百年の間にこのまちは帝政ロシア、日本、中国と三つの国に支配された。まちのあちこちには二十世紀初頭にこの町を支配した帝政ロシアの香りが色濃く残っている。アールヌーボー調の建物に、石畳の街路樹。夕暮れになるとメインストリートには夜市が立ち、楽しげに行き交う人々であふれている。

帝政ロシアが美しい町並みを残したのとは対照的に、日本が残したものは重苦しい。一九三ニ年から日本軍はハルピンを武装占拠。四五年まで日本の支配下に置いた。その間に日本から大量の移民が流入し、現地の中国人を日本軍は弾圧した。

市の中心部から南へ二十キロ。その場所は平房とよばれる何の変哲もない町の中に突然あった。

『侵華日軍七三一部隊遺址』 

悪魔の飽食で知られる七三一部隊は、細菌兵器を生きたままの中国人で実験した場所だ。建物の一部が資料館として残されているが、足を踏み入れただけでおどろおどろしい雰囲気が漂っている。暗い館内からは今にも、殺された人々の無念の叫び声が聞こえてきそうだ。特に日本の占領に対して反対運動をしていていた中国人およそ三千人がここで『丸太』と呼ばれ、生きたまま細菌兵器で殺された。開発された兵器は空中散布の形で実際に戦闘で使われている。ここは日本軍の非人間的行為の象徴のような場所だ。

戦争中日本軍は国際条約に違反して、細菌兵器や化学兵器を大量に使用していた。敗戦時、細菌・化学兵器の使用が明らかになることを恐れた日本軍は組織的に施設や資料を廃棄。各部隊が所有していた、細菌・化学兵器を野山に捨てて逃げた。

黒龍江省にはいまでも、多くの細菌・化学兵器が眠っている。毒ガスだけでも、その数は中国全土で七〇万〜二百万トンと言われており、その毒性は五十年を過ぎた今もなお強い。工事現場や農地からひんぱんに掘り起こされては、中国人の被害が出ている。二〇〇三年八月には、黒龍江省チチハル市で、遺棄された毒ガスが掘り起こされ、一人が死亡、三十七人がケガをおって、日本でも大きく報道された。中国では日本軍が遺棄した化学兵器が原因で、戦後におよそ二千人が死傷したといわれている。

4. 毒ガスに塗り替えられた人生

毒ガスに侵された李臣さん
毒ガスに侵された李臣さん
ハルピン市内に住む李臣さん(五十九歳)は一九七四年、河の浚渫工事の仕事中に毒ガスの被害にあった。日本軍敗戦の年に生まれた李臣さんは、当時、すこぶる健康な二十九歳の青年だった。三年前に結婚した奥さんと、生まれたばかりの長女とのしあわせな毎日を送っていた。

ある晩、いつものように仲間四人と働いていたとき、突然ガリガリという不審な音がして、船のエンジンに何か絡まって止まった。

『なんだろう?と思ってポンプの中をのぞいたんですよ。そしたら、黒い液体が少し漏れていたんです。わたしが引っかかっている物体を取り出して、仲間に渡したんです。』

次の瞬間、強烈なマスタードの匂いがして、あまりの刺激臭に目が開けられなくなった。その空気を吸ったとたん、そこにいた四人全員が気分が悪くなって、吐き気をもよおし、そのまま仕事ができなくなってしまった。早めに仕事を切り上げた李臣さんは、『何か得体の知れない毒物に違いないと直感しました。ただ、まさかそれが日本軍の遺棄した毒ガスだとは夢にも思いませんでした。』

家に帰るとすぐに毒ガスの症状が出始めた。毒ガスの入れ物に触った両手にはぶどう大の水泡が沢山できて、まるでぶどうの房のように膨れ上がった。眼からは涙が止まらなくなり、頭にも卵のような大きな水泡ができた。
自分の体の異変を尋常でないと感じた李臣さんは、病院にかけこんだが、医師も『見たことも聞いたこともない症状だ』として、治療法が見つからなかった。

その間にも症状はどんどん悪くなり、顔は真っ黒になり、手も変色してしまった。手の指と指の間がくっついて水かきのようなものができた。医者に行って切ってもらっても、すぐにまた同じように水かきができる。寝ていると体中から膿がでて、布団がぐっしょりと濡れるので、夜中に何度も変えなければならなかった。手や口が腐ってひどいにおいがした。トイレにも満足にいけなかった。

妻の呉鳳琴(ウ・フウチン)さんは『変わり果てた夫の姿を見て、自分の人生の幸せはなんと短いのだろうかと毎日泣きました。原因もわからない。直る当てもない。働けなくなった夫と、生まれたばかりの子供を抱えて、明日からどうやっていきていこうかと途方にくれました。』

原因が旧日本軍の毒ガスだとわかったのは、事故から一ヶ月後、北京の国立病院で見てもらったときだ。担当した医師は同じような症状の患者を診たことがあった。原因を聞いた李臣さんは目の前が真っ暗になった。

『毒ガスが原因なら、もう一生直らないとわかったからです。以前、日本軍の毒ガスの被害を記事で見たことがあったからです。これで、自分の人生ももうおわったと思いました。』

それからの李臣さん一家の生活は悲惨を極めた。入退院を繰り返し、あまり働けなくなった夫の収入は半分以下に減った。代わりに、妻がごみ広いなどの仕事で働いて生活を支えたが、治療費がかかるために極貧生活になった。八十五年の春節(旧正月)には家にお金が二元しかなかった。正月なのに餃子さえも食べることができなかった。父親の得体の知れない病気は伝染病だとうわさになり、近所付き合いもままならなくなった。

『娘が小さいころ、道で遊んでいる友達の仲間に入ろうとすると、ほかの子供たちの母親が飛んできて、自分の子供をそれぞれ家に連れて帰るんです。あの一家は、奇病の一家で、遊ぶと移るかもしれない。一緒に遊んじゃいけないと。うちの娘はいつも仲間はずれでした。私は母親として娘に何もしてやれないのが悔しかったし、自分たちに何の落ち度もないのに、なぜ、こんなめにあわなければならないのかと悔しくて悔しくてたまりませんでした。』

事故にあってから生まれた次女は病気がちで、満足に学校にも行けなかった。
『学校に行かせるどころか、娘に新しい服も買ってやれない。アイスを食べたいとねだられても買ってやれない。自分の被害のせいで家族をそういう目にあわせていることが本当につらくて、つらくて。』

生きている自信をなくした彼は、二回、自殺を図っている。何とか、一命を取り留めたが、毎日、死にたい、死にたい、と思い続けていた。毒ガス兵器の症状は、肉体的だけにとどまらず、精神的にも李臣さんを苦しめたのだ。

厳しい年月をともに過ごしてきた夫婦はとても仲がいい。住んでいる集合住宅の屋上を借りて、小さな花壇を作り、二人で花の手入れにいそしんでいる。子供も大きくなって結婚し、生活を支えてくれているので、かつてのような極貧生活ではない。

『この草は食べられるのよ。まずしくかったからいろんなことを知ったわ。』
仲良く話す二人だが、次女を生んでから二十五年以上、二人はセックスをしていない。若かった二人は事故の後も、症状がひと段落すると普通に性生活をはじめた。しかし、セックスのたびにあまりに痛むので病院で見てもらうと毒ガスは李臣さんの精液を通じて、奥さんの子宮をぼろぼろにしていた。それでも若かった二人は、もう一人子供をつくりたいと体を交わしたが、次女が生まれた後は、病気が妻に移るためにセックスをすることをやめた。

『私もね、若かったんですよ。愛している人に愛してもらえない。愛し合いたいのに愛し合えない。そのつらさが、わかりますか?女としての幸せも毒ガスのせいで、なくなってしまったんですよ。』

いまも、李臣さんの体には、むごたらしい毒ガスの傷があちこちにある。さすがに最近は年月がたったので、体に水泡や水かきができることはあまりなくなったが、足を悪くしていて歩くのがやっとだ。毎日毎日、心臓や肝臓などの障害のためにおよそ三〇錠の薬を飲んでいる。事故から三十年を経た今も、李臣さんの体は、外側も内側もぼろぼろなのだ。同じ事故にあった仲間も同じような症状で苦しみ、すでに亡くなったものもいる。

今年の八月にチチハルで起きた最新の毒ガス事故の新聞を見ながら、二人はつぶやいた。

『事故にあったこの人達は、私たちが味わった苦しみをこれからずっと味わうんですよ。貧しくて死にたかったこと、病気がひどくてやりきれなかったこと、愛し合いたくても愛し合えなかったこと。なぜ、同じ間違いがいつまでも続くんでしょう? あんな苦しみは私たちだけで十分です。他の誰にも味わってほしくない。』

5. 歴史的な判決

2003年9月29日 歴史的な判決が出た
2003年9月29日 歴史的な判決が出た
二○○三年九月二十九日。劉敏さんや李臣さんが原告となって争われていた『旧日本軍遺棄毒ガス・砲弾被害事件第一次訴訟』の地裁判決の日。この日のために来日した二人は、緊張した面もちで法廷に入った。訴訟を起こしたのは九十六年。実に七年越しの判決だ。

『楽しい事なんて何もない』とハルピンの実家で答えた劉敏にとって裁判の結果だけが、自分に人生に再び未来を取り戻せるかどうかの唯一の希望の光だ。 東京地裁前では支援者と日中両国のテレビ・新聞およそ30社が判決の行方を待っていた。戦後補償の絡んだ判決では残念ながら負けることが多い。同じ被害を別の被害者が提訴した二次訴訟では五月に棄却されたばかりだった。

法廷が始まって三十分後、走ってきた弁護団の手には『勝訴』の文字。マスコミも支援者も意表をつかれたように一瞬、止まった。次の瞬間大きな歓声が上がった。判決は原告の訴えをほぼ認める内容で、旧日本軍が遺棄した毒ガス・砲弾の戦後の処理について日本政府の責任を認めた画期的な判決だった。
政府が主張してきた『七十二年の日中共同宣言で戦争賠償は解決済み』に対しては、『中国国交回復後も、長い間、その危険性を知りながら回収のための積極的な働きかけを怠った責任』を指摘し、原告全員に対して数百万円〜二千万円の損害賠償を認めた。

法廷から出てきた劉敏と李臣さんの手にはそれぞれ、亡くなった父親と仲間の遺影がしっかりと抱かれていた。

『中国人民は勝利したんだ!我々は正義をやっと手にしたんだ!』李臣さんは大きな声でマスコミに向かって叫んだ後、そっと涙を拭った。

『おとうさん。やったよ。お父さんの正義を取り戻したよ。おかあさん、弟よ。私たちの八年は無駄じゃなかったよ!』

劉敏さんはもう泣いていなかった。ハルピンで出会ったときの、沈んだ表情ではなく心からの笑顔を見せた。それは、まるで全くの別人のものだった。

6. 神栖町とチチハル

画期的な判決が出た背景にはいくつかの要素が絡んでいる。同じ内容の別の訴訟が五月に棄却されているのに、九月には勝訴になった。この間に2つのことがおきている。一つは茨城県神栖町でおきた旧日本軍の毒ガス由来の被害が広く世間に知られ、環境省や厚生労働省を中心に日本国内の毒ガス調査が始まったこと。もう一つは、八月に黒竜江省チチハル市で大規模な毒ガス事故が発生し、一人が死亡したニュースが日中両国で大きく報道された事だ。チチハル事件に関する中国政府と人民の怒りは大きく、日本政府は何らかの対応を行う方針を出さざるを得なかった。事件を受けて中国国内には毒ガス被害に関する注目が集まり、劉敏さんたちの裁判についても報道され、市民の間には裁判支援のための募金や署名活動が盛り上がった。

国境を越えた市民の共通する被害が、画期的な判決を生み出したといえるだろう。

7. 頂点から再び・・・

日本政府が控訴した
日本政府が控訴した

月曜日に出た画期的な判決は、火曜日の新聞各紙の一面を飾るトップニュースになった。二週間以内に日本政府が控訴しなければ判決は確定する。
水曜日、原告の二人は直接政府に訴えかけようと、社民党議員の手引きで会期中の国会に行き、議場の廊下で小泉首相と川口外相に控訴を断念して欲しいと呼びかけた。
川口外相は、二人の訴えに足を止めて熱心に耳を傾けたが、小泉首相は多くの衛視に囲まれてまるで犯罪者から逃げるように足早に去っていった。このニュースもテレビ各局が夕方のニュースでトップに近い項目でとりあげた。世論もマスコミも控訴断念を支持しているかのように見えた。

木曜日の夜、早稲田大学で行われた学生向けの集会の後、居酒屋で、劉敏さんは教師になる夢を語った。『大学に行くことが出来たら、いまからでも教師になりたい。』
未来の無かった彼女の人生に再び光が射し込んでいた。

そして、金曜日の夜。二人は議員会館で記者会見望んでいた。日本政府が控訴したのだ。李臣さんは怒りで体をわなわなふるわせながら記者の質問に答えた。
『日本政府は人間じゃない。私が二十一年間どんな思いで生きてきたか?この苦しみがわからないのか?』

その横で劉敏さんは机に突っ伏して泣きくずれた。

裁判の勝訴が大きく報道されたのとは対照的に、この日の記者会見はほとんどニュースにならなかった。金曜の夜から週末というニュース番組が少ないタイミングだったからだ。多くの日本の人々には『中国人勝訴』のまま記憶されている。しかし、二人はわずか四日間だけ『勝訴』を味わって、再び、もとの苦しみの場所に戻って行かねばならない。

記者会見の後、ホテルへ向かうタクシーの中で二人は肩を寄せ合い泣き続けた。控訴審の判決までには早くても二年はかかるだろう。それまで、また長い暗闇が続くのだ。五十九歳のおじさんと二十七歳の女性。一見、何の共通点もなく見える二人だが、同じ苦しみに耐え、にがい涙をこらえながら生きる者にしか分かり合えない重苦しい空気が車内には漂っていた。

『なぜ日本政府は控訴したの?やっと苦しみから解放されると思ったのに。お母さんを働きづめの生活から解放してあげられると思ったのに。どうして日本政府に責任がないといえるの?』

つかの間の笑顔は消え、劉敏さんは再びもとの沈んだ表情に戻っていた。タクシーが交差点を曲がると、泣きじゃくる彼女の肩越しに、きれいにライトアップされた国会議事堂が見えた。それはまるで彼女の肩に、かつての日本軍と今の日本政府がのしかかっているかのようだった。

その肩の重荷をとり払うことができるのは一体、誰なのだろうか?二人を乗せた車は、まばゆい東京の光の中を走り続けた。
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